アナリティクス

2010年11月8日月曜日

老人の生甲斐 ~可能になった「生産と供用」

 老人はよくテレビを見る。一日中テレビをつけっ放しという人もいる。テレビを見ているだけで一日が終わってしまい、翌日もまたテレビを見ているだけ、なんていうのはよくあることだろう。そんな生活を想像したことが、老人の生甲斐を考えてみるきっかけになった。

 私自身はどんなとき、自分に存在価値を認めるだろう。私は「人のために役に立てた」ときに自分の存在価値を感じる。では、私はどんなときに人の役に立てるだろう。キーワードは「生産と供用」である。モノやサービスを生産し、これを供用したときに、人の役に立てる。私たちは生きている以上、少なくとも何かを生産し、さらに供用して、人のために役立たなければならない。生産しただけではダメである。供用しなければ、少なくとも供用を試みなければ、人の役に立つことはできないからだ。

 モノやサービスを生産して供用し、人のために役立つことで、自分の存在価値を感じられることが分かった。では、何を生産すればよいのか。それが最初の現実的な問題である。定年退職し「さて野菜でも作ろうか」と思っても土地がなければ作れない。鍬を作ろうにも道具がない。作ってもどうやって供用すればよいのだろう。従来もこれからも、老人(特に都会の老人)が有形のプロダクトを生産し供用することは困難である。ではどうすればよいのか。

 従来と現在が異なるのは、デジタル技術の飛躍的な発達と、インターネットの普及である。われわれは土地を持たないが、パソコンとインターネットは手に入れた。無形プロダクト・無形サービスであれば土地や設備がなくても、パソコンで生産し、インターネットでいとも簡単に供用できる。無形プロダクトとは、例えば論文、写真、日記、ノウハウ、コンピュータプログラム、音楽といったものである。老人にとってこれらは従来も生産可能であったが、パソコンによって生産が容易になり、かつインターネットによって全世界を相手にタダ同然で供用できるようになった。

 従来の老人は、生産と供用の手段を持たなかった。いまは違う。いまの老人は「生産と供用」の手段を持つ。これは大変な社会変革である。

 老人は「野菜を作ろうにも土地がない」といういい訳を失った。老人は無形プロダクトを次々に生産して、インターネット上に供用しなければならない。これによって人の役に立たなければならない。もはや一日中テレビを見ている暇はないのである。